あるべき男同士みたいなもの、俺は知らない

 たぶん俺は男社会の暗黙のルールが好きではない。
 ……どころか、全くピンと来ていないようなところがある。

 という認識を持つようになったのは、ほんのつい最近のことだ。
 そして何故そうなったのかと言えば、近年、たまーにだが哲学者で作家の千葉雅也氏の𝕏上のポストを読む機会があり、その中で解っていなかったことが急に腑に落ちたような感覚を何度か経験したのだが、恐らくそのことが結構大きな原因であるように思う。
 自分の性的感性は一応ノンケの範疇であるし、千葉氏のようにギャル男だということも勿論ないし、そもそも別個の他人であるので全く同じ考えだと思ったりもしないのだが、彼が謂わば“暗黙のルールに基づいたヘテロ男性同士の交流”で求められる態度に親しみを持てずにいる時の感覚、抱いた気分、或いはその視点からの解釈と自身が其処でどう振る舞うのかについて述べたポストを読んだ時、「はあ成程。確かに言われてみれば皆そういう風にしているような気がするし、色々と納得がいくぞ。」と今更思ったりするのだ。

 具体的にはこういう内容のものだ。

競争意識デフォルトで男同士の関係を見る態度を僕に無理強いしようとする人がたまにいて、そういうことを強いられると僕はキレることがある。そのキレ方は、マウンティングに対する対抗マウンティングとはまったく違うので、それもよく理解されない。— 千葉雅也 Masaya Chiba (@masayachiba) September 13, 2020

男同士の競争意識というのを自分に向けられると当惑する。「男同士は競争している」と思っていないので。— 千葉雅也 Masaya Chiba (@masayachiba) April 20, 2022

 ざっとサーチしてみた中でも特に端的に頷ける内容だったのが上に引用した2つのポストだった。
 どうしてこれが特に頷けるのかといえば、「僕に無理強いしようとする人がたまにいて」とか「自分に向けられると当惑する」とかいった言い回しになっている部分に共感を覚えるからだ。

 例えば、他者同士の間で繰り広げられているそのような振る舞いであれば、自分はまあ理解できる。
 「理解できる」というのは、俺も当該当事者達がそのように「やり合っている」という事実に納得がいくという意味であって、「俺もそのような場面で同様の言動をするであろう」ということではない。
 例えば、カテゴリやジャンルは何でもいいが、漫画などで男性キャラクター同士が互いに競い合っている場面を見て、例えばそれが対象を単に徹底的に駆逐すべしという強烈な排他性を伴う憎悪と敵対心であるとか、或いは逆に肉体関係もしくはスピリチュアルに結びつくことを志向した愛情表現だという風に変に誤解する確率は恐らく高くはなく、多くの場合は正しく「そういった競争が現実的に表出する彼らのパーソナリティ同士のあいだで継続的に発生する一種の化学反応であり、親しみと尊重の方法であり、お互いに利得となるような、暗黙に折込済みの快き関係性である」という風に自然に直感している。

 但し、それを見て、自分がその中に身を置いているという感覚を持てるかと言えば、全くそうではないのである。
 単純に、そのような当事者的感覚を根本的に欠いているのである。だから、実際的にはそのような社交関係は自分のものとして“一切ピンと来ない”というほかないのである。
 「ひょっとすると、アレはもしかして自分にもそういう競争的な感情が向いていたのか?」と思う場面も決してなくはない。
 だが、相手がはっきりそう宣言したのでなければ、それを勝手に断定するのは些か早計すぎるようにも思えるし、何となく邪推からモヤッとしたとしてもそれ以上は留保して、多くは客観的な事実、或いは裏の取れた情報の一つにまではカウントしないように切り分けて考えるように心掛けるということになる。
 たぶん、仮に「君も男同士のゲームのプレイヤーとして振る舞いまえよ」と言われると、普通に「なんだそれは?嫌だなあ」と思うだろうし、「君もそれで相手と親(ちか)しくなれるぞ」と言われたとすれば、正直言って自分の在り方としてあまりにもリアリティを感じないのだ。
 というか、そもそも意思という枠組みにおいても、単純にそれを望んでいないのだ。そうすると、それを押し付けられるということは決して快いものではなく、たいへんにストレスフルな状況だと言える。1

 そういう意味で、先に引いたような千葉氏のポストに全面的に同意することが可能だというほかないのだが、前述したように、今のところ自分は千葉氏のように明確なゲイ的感覚を有しているという風には自己理解をしていない。
 だから、自分が同性に対してベッタリとした仲になろうという発想を持つのは後にも先にもレアケースであろうし、先のような話も深いところでは同じ視座から首肯しているとは言えない可能性がある。
 例えば、千葉氏の次のようなポストについては、そこまで強く同感したりはしない。

男同士の、バーカとかうぜえよとか死ねとかそういうコミュニケーションが自然にできないので、エキゾチスムを感じるしかない。二人称でお前を使うことさえままならないのだから。— 千葉雅也 Masaya Chiba (@masayachiba) January 10, 2016

互いに対して性欲がまったくない男同士が、ゲームや仕事で「どっちが上か」を競って真剣になっているのを、いつも滑稽に思っている。— 千葉雅也 Masaya Chiba (@masayachiba) February 25, 2018

 1個目について言うなら、その(別ポストでの千葉氏の言い方だと「つっけんどんな」)戯れというものは別に一応可能であるわけだが、それはどちらかと言えば、アホなガキがやる水準のしょうもないイタズラや悪ふざけが未だに面白いというようなもので、愛憎問わず感情的な衝突やパーソナル・スペースの侵犯可能性に対する梯子外しによる防止である。それは、大人の男がやるような「ガッハッハ、お前は全くダメな奴だな!さあ俺の奢りだ一杯飲め!」と肩を強く叩くような暑苦しいマッチョな関係性を志向してはいないし、非マッチョ同士で小突いてみるなど、あたかもベタに男っぽい挙動を取っているかのように遊びで演じることは、寧ろそれを回避しつつ互いに安心感を得ることに繋がる。無論、そこに勝ち負けや優劣が入り込む余地はなく、そういう風に謎の上下的な存在様式をぶつけられると、しんどいし、普通にムッとするものだ。
 2個目についてだが、そういう関係性をBL的に見る腐女子の視点にさえ、その当事者のそれよりは余程共感するらしい千葉氏から見た、ヘテロ男性同士の競争意識に基づいた関係性というものの不可解さであるが、自分はその見方はしない。ゲイである彼の場合は、「普通に男同士でもベタベタすればええやん」と真逆の基準から彼らを訝しむのであるが、ノンケである自分の場合にも、そこには同調しないし参加しないという意味では同意するが、1個目と同様に「そこまで馴れ合いもしない」ところに落ち着いてしまうという点においては、実に典型的に「ヘテロ男性らしい」同性に対してドライな言動を取っていると言えなくもない。
 いずれにせよ、わざわざ能力や魅力を見せびらかして対抗し衝突し合うことで「競争的で熱い共存関係を確認し合う」というのは何というか、自分の属している・或いは属し得る社交関係においては先ず以て発想が出て来ない。そうすることが極めて不自然で不合理で不当な在り方だと思うのが自然な感覚だ。一方でそれは、同性同士で横並び的な至近距離で身を寄せ合い「べっとりと同調し合う」ような、謂わば女子の連れション的な関係にシンパシーを感じるということでもない。
 また、他人の行為としては普通に理解できるし、勝負事を押し並べて忌み嫌っているというわけではない。2
 自分が多くの場合、そういう暗黙のパワーゲームに個人的に参加したいと思わないだけで、別に男の場合はそういう同性関係の在り方が、異性たちを獲得し、多くを受精させようという衝動に基づいて獲得されていった慣習であり、特殊的・個別的なものとして「沢山発生する」ということに疑問はないし、ホモ・サピエンスという生物の標準的なオス個体3の特性によく見られる傾向としては成程さもありなんと思える。

 つまるところ、男社会・女社会における「それらしい仕草」というものを、人間(或いは市民)の普遍的規範として信奉されて然るべきものという風には捉えられないし、あくまでいずれかの側のジェンダーの個体群は高確率でそちらの価値観に自然に親しみを持ち、意識的・無意識的水準の双方において、積極的にそうあろうとする傾向があるのだろう程度の話として自分は考えてきたのだ。勿論、今もそうだ。
 だから、個別具体的に個人個人にとって自然であるか自然でないか、面白いか面白くないか、やりやすいかやりづらいかの話で、当然時と場合によって変化することだってある。だから他人にわざわざ全体的な傾向に合わせなさいと口出しするのは余計なお世話だと感じるのである。
 しかしながら、もしかすると、或る種の個人のケース・バイ・ケースに対する寛容が獲得された現代日本国内においても意外と皆が皆そのように考えているというわけではなく、難なら「男だったらこういうことが快いはずだ(そうでなければ変だ)」という固着観念が(建前上はともかく)実感としては修正し難い(或いは修正したくない)こと、みんなで等しい基準を共有したいと考える勢力は今でも強いのではないだろうか?
 と、今まで見聞きした様々な物事を総合して、昨今は何かと疑問を抱きつつある……というお話であった。

 だが、それでも育ってきた場所や幼児期からの感じ方、数々の経験や自己感覚を振り返るに、その固着観念が人々の実態に沿ったものであるとも、そしてその受容の困難さが必然的だとも、俺には到底思えない。(今回ここでパーソナルな背景事情についての考察に紙幅を割くつもりはない。)
 人間社会の暗黙のルールの生命力(しぶとさ)を理解し、その現状をだんだんと認識しつつあるが、だからそれに倣って従おうなどという気持ちは毛頭ない。寧ろ、個人的には何ら本質的なものを探し当ててくれない、取るに足らない形骸の思想、幻想的なジェンダーロールの怪物を、人々がこちらに強制してくるようなことがあれば、きっとその脅威を前にどれだけ怯んでしまったとしても、心の中では死ぬまで徹底抗戦することだろう。
 何故ならば、今回述べた事実を近年ようやく少しずつ実感していった程度にはその感覚が全く“ピンと来ない”ものであり、俺にとっては死ぬほど胡散臭いものだからである。

 自分の中にある如何にもオスっぽい感性は、ほんのふとした拍子にだけ感じられれば、それで良いのだ。

 さて、本質的な余談。俺はましろ爻が大好きだ。
 もう死ぬほど好きで、クソほど大好きで、心から愛しているし、尊敬もしている。

 低身長で少年的な容姿、初見の視聴者からは頻繁に女と間違えられる美しい声を持ったましろ爻は、背が高いとか野太い声とかの男臭さとは縁のない正真正銘の男性ライバーだ。配信中には「アイドルよりはお笑い芸人に憧れる」とか「逆張りオタクだからVTuberらしくないことがしたい」などとしばしば語りつつも、「もっと“可愛い売り”を目指すべきなのかなあ…」と漏らしては「そのままでいいんだぞ」「やめとけw」「充分可愛いだろ」とリスナーとバカバカしい漫才を繰り広げている昨今である。4

 俺はそんなましろ爻こそが「男の中の男」だよなあ、と常々本気で感じている。逆転の発想、そしてアイロニカルな言葉選びであるには違いないが、心の底から大真面目にそう思っているのだ。
 世に言う男らしい男、或いは世間が男らしいと認めないものを抱えてしまう恥辱と不名誉に耐えきれず、押し付けられた「男」像に反するものを駆除し続けることに明け暮れては、ちょっとしたことで「男失格」の烙印に絶望しなければならない、或いはそれを他者に押し付けては優位を実感せねばならない生き方。そんなものに憧れて、何が面白いのだろうか?(勿論、各々の好きにすればよいことだが。)
 既成の価値観に囚われたまま空威張りで一喜一憂する連中よりも余程エネルギーを滾らせてくれる存在、それが俺にとってのましろ爻なのだ。「ちょっとだけぶりっこしてる」(本人談)と言いつつも、別に自身を華奢でか弱い存在として認知させようと努めているわけでも、わざわざ雄々しさのない男を演じて不必要に媚びたりしているわけでも決してない。実のところ、その溢れんばかり adorability は、恐怖体験に対する好奇心とイタズラっ子の衝動で少し危ない世界にさえ自ら進んで足を踏み入れていく、誰にもコントロールできない勇猛な破天荒ぶりと危なっかしくも自由な身のこなし、そして(女体のエロスを含む)秘められた面白い刺激に誘引され続ける感受性にこそ宿るのだ。
 そして、リスナー(男の方が割合的に多いのは有名である)にはクラスメイトの配信を観に来るつもりでいてくれと言うほどに、同じ目線の高さで話してくれて、可愛いと言われまくることにも抵抗を持たず、しかも実は同時に平均的な男よりも小さな体躯でありながら水泳やかけっこもメチャクチャ得意という身体能力の持ち主で、決してハッピーとは言い難い自身の境遇さえ乗り越えてきた果てで、今自分が生まれ持った愛らしさの素質を惜しみなく堂々と売りにして逞しく生きているましろの方が、俺にとっては他の誰よりも敬愛すべき同性の英雄(ヒーロー)たり得るのである。

 

  1. だから、最近話題になっていたジ●ージ氏の男磨きイズムみたいなのは、(現実分析としての是非やそういう理念を掲げることの実際的効用というものは措いて言えば)率直に言えば、男たるもの思想の押しつけのようなもので全く興味がないし、鬱陶しい。個人の処世術や自己啓発として完結しているのであれば好きにすればよいが、それが蔓延するというのであれば、そのようなものは自分には明らかに不利益なのであって、同調しないはずである。 ↩︎
  2. どちらかと言えば、自分が楽しそうとは思えない男たちのバトルフィールドには乗っからず、自分で決めたマイルールの内部で成果を出したり、目標を達成することで自由を感じ、それが俺なりの自己充足であるという風に得して、それを勝ったと表現するようなことが多いだろう。  ↩︎
  3. どうも生物学の人たちの間では、有性生殖において配偶子が小さい側のジェンダーのことを、オスと称するようだ。もし俺自身が事実としてそうであるならば、自分がそのようにカテゴライズされることに俺は「まあそういうもんか」と単純に理解できるし、或る統計的事実がその属性の調査において認められるなら、それも然りだ。そういった人間がそれぞれの社会の中での経験則で勝手に「男とは!」「男かくあるべし!」と信じられているつまらない言葉よりは余程自然に飲み込めるし、仮説としてはいずれも信頼に足るだろうと感じるものだ。なお一応、その人類のおしゃべりの部分を肯定するならば、男とか女とかで人間がする言葉遊びとて、たとえそれが真理でなくともそれ自体は粋なもので、趣を感じることもあるし、些細な与太話で目鯨立てることもなく、その文学性を享受するようなことはそこそこ出来ている。人文系だもの。  ↩︎
  4. 個人的にはあの馬鹿げた擬似空間こそが究極的に理想的なホモソなのだが、ここで多くは語るまい。  ↩︎